Design/作品

1957年、カロッツェリア・ヴィニャーレのイタリア在住の顧客のために考案されたシトロエン。この特別なシトロエンDS19はヘッドライトやボンネット上のエアスクープなど興味深い点がいくつかある。こうした変更を加えることで、フェンダーやボンネットのラインをより低く抑えることに成功している。2トーンの塗り訳は957/1959年の特徴でもある。

メドー・フリスキーのためにミケロッティが描いたオリジナルデザイン。ヴィニャーレとメドーのバッジ、そしてミケロッティのサインが見て取れる。

1972年にミケロッティが手がけたこのデザインは、ミニ・マイナーを大型化したクルマ(開発コード名はADO74)用の提案。ミケロッティはクレイモックアップも製作した。

1951年のトリノ・ショーに出展されたフェラーリ195インテル。ミケロッティがギヤのために手がけたデザインは10台ほどのフェラーリ195インテルに実際に使われた。

ミケロッティがNARTのために手がけたデザインのひとつ。このフェラーリ365GTB/4キネッティ・スパイダーは1979年に作られた。1980年に他界するジョヴァンニ・ミケロッティ最晩年の1台でもある。

ミケロッティがランチア・アッピア・コンバーチブルのために手がけたデザイン。ヴィニャーレが製作し、ランチアがそのディーラーを通じて販売した。1957年から1961年まで生産された。シリーズ2まである。シリーズ1は2座で、シリーズ2は2+2だった。

1974年にランチア・ベータ・ベルリーナのシャーシを使ってミケロッティで作られた"ミザール"。ドアは4枚ともガルウィングタイプで、デザイナーは多大な困難に直面した。発表は第55回トリノ・ショー。

日野コンテッサ900スプリントのためにミケロッティが手がけたオリジナル・デザイン。プロトタイプは1962年のトリノ・ショーで発表された。プロトタイプ用のエンジンはナルディによってボア拡大とチューニングが施され、983ccから45PS/5500r.p.m.を発揮した。コンテッサ・スプリントは日本のメーカー用にミケロッティが手がけた2つめのものだった。ひとつはミケロッティがデザインしてアレマーノがボディを架装したプリンスのスカイライン・スポーツだった。

ヴィニャーレとミケロッティがゴルディーニの"V12"用に提案したプロポーザル。

スタビリメンティ・ファリーナのためにミケロッティが手がけたデザイン。このデザイン案は戦時下の1944年に描かれた。ミケロッティが1946年に使った新しいアイディアをいくつか見てとることができるだろう。

これはスタビリメンティ・ファリーナがアルファ・ロメオ"2500SS"を想定して企画していたクルマ用にミケロッティが描いたもの。1937年から1947年までの10年にわたって、ミケロッティはスタビリメンティ・ファリーナで働いている。1947年にフリーランスとなるが、その歩みだしをアッティリオ・ファリーナが助けたのだった。

トライアンフ"ボブキャット"プロトタイプのための4番目のプロポーザル。ミケロッティはひとつのプロジェクトに対し同時にいくつもの提案をするのが常だった。例えバスピットファイヤー用には4番目のプロポーザルが採用された(スピットファイヤー4と呼ばれる所似)。このボブキャット用の第4案は採用されなかった。

フェラーリ340メキシコのために描かれた最初のスケッチ。コーチビルドは1952年、アルフレッド・ヴィニャーレによって行われた。No.0228ATのシャーシを使ったこのクルマは、本来の目的であったカレラ・バナメリカーナを走ることはなかったが、ウィリアム・スピアの手によってアメリカで長いレース・ヒストリーを築き上げた。

マトラ・ラセル用に描かれたオリジナルデザイン。この原案にある前後フェンダーの曲線的なデザインは最終的なプロトタイプには生かされなかった。